炭素量が0.6%を超えると、Mf点は室温以下になり、焼入れしても硬さが出ずに製品クレームになることがあります。
焼入れ操作において、冷却中の温度管理は製品品質を左右する重要なポイントです。その中でも特に「Ms点」と「Mf点」の2つは、マルテンサイト変態の開始と終了を示す温度として、熱処理従事者が必ず押さえておくべき指標になっています。
Ms点(エムエス点)とは、焼入れ時にオーステナイトを急冷した際、マルテンサイト変態が始まる温度のことです。一方、Mf点(エムエフ点)はその変態が完全に終了する温度を指します。この2点の間の温度域で、マルテンサイトは徐々に生成されていきます。
重要なのが、マルテンサイト変態は「時間変態ではなく、温度変態」という点です。つまり時間をかけてゆっくり冷やしても、温度がMs点以下に達しさえすれば変態は進行します。逆に言えば、Mf点まで冷却しなければ変態は完了しない、ということになります。
Ms点以下の温度域では、冷却速度が急激すぎると製品各部に温度差が生じ、焼割れや変形を招きます。これが「Ms点以降はゆっくり冷やす」という熱処理原則の根拠です。
共析鋼(炭素量0.76%C)の場合、Ms点はおおよそ220℃程度とされています。この値を念頭に置いた冷却操作が、優れた焼入れ品質の出発点になります。
| 温度指標 | 意味 | 代表的な温度(0.76%C鋼) |
|---|---|---|
| Ms点 | マルテンサイト変態 開始温度 | 約220℃ |
| Mf点 | マルテンサイト変態 終了温度 | 室温付近〜室温以下 |
Ms点とMf点の差は概ね100〜150℃ほどある場合が多く、その範囲で変態が段階的に進むと理解しておくといいでしょう。Ms点以下の冷却管理がそのまま製品の仕上がり硬さと直結しますので、この2点は熱処理作業の「地図」のようなものです。
参考:Ms点・Mf点の基礎と焼入れ操作への応用(鉄鋼の熱処理と加工)
https://daiichis.work/heattreatment/02_quenchz32/
Mf点の計算式が一般的な鋼材カタログにほとんど掲載されていないことは、意外と知られていません。
Ms点については、いくつかの経験式(計算式)が研究者によって提案されています。最もよく知られているのが、鉄鋼協会の書籍「鋼の熱処理」に掲載されている以下の式です。
| 式の名称・出典 | 計算式 |
|---|---|
| 鉄鋼協会式(K換算) | Ms(K) = 823 − 350C − 40Mn − 35V − 20Cr − 17Ni − 10Cu − 10Mo − 10W + 15Co + 30Al |
| Rowland&Lyle式(℃換算) | Ms(℃) = 499 − 324×(C%) − 32.4×(Mn%) − 27×(Cr%) − 16.2×(Ni%) − 10.8×(Si%) − 10.8×(Mo%) − 10.8×(W%) |
| 機械構造用鋼向け近似式 | Ms(℃) = 550 − 350C − 40Mn − 20Cr − 17Ni − 10Cu − 10Mo(一般的簡易版) |
これらの式に共通しているのは、炭素(C)の係数が最も大きく、Ms点(ひいてはMf点)に最も強く影響するという事実です。これは実測データとも一致しており、炭素量が増えるほど変態温度が下がることを示しています。
つまりMs点が低い分だけ、Mf点も低くなる、ということです。
特徴的なのはコバルト(Co)の存在で、他の合金元素がすべてMs点を「下げる」方向に働くのに対し、CoだけはMs点を「上げる」方向に作用します。コバルトを多く含む高速度工具鋼(SKH系)では、3回焼戻しが必要な理由のひとつがここにあります。これは知っておくと便利です。
一方、Mf点については独自の計算式が少なく、実務上は「Ms点よりも約150〜200℃程度低い温度」という目安で推定されることが多いです。高合金鋼では室温以下になるケースもあるため、理論値だけに頼らず鋼材メーカーのデータを確認する姿勢が重要になります。
これらの計算式には成分範囲の「適用制限」があります。低合金鋼では計算値と実測値の差が比較的小さいですが、高合金鋼になると適用範囲を外れるケースが多く、計算上の数値だけを信用するのは危険です。「数字がゼロよりはマシ」程度の推定値と捉え、実測や文献値との照合が推奨されます。
参考:Ms点を求める複数の経験式と実測値との比較解説
https://daiichis.work/heattreatment/02_quenchz32/
炭素量と変態温度の関係は、Mf点の実用上の意味を理解するうえで欠かせない知識です。
Fe-C合金のデータによれば、炭素量が約0.6〜0.7%を超えると、Mf点が室温(20℃)以下になります。これはどういうことかというと、炭素量が多い鋼を普通に水焼入れや油焼入れしても、Mf点まで温度が下がりきらず、マルテンサイト変態が完了しないまま冷却が止まってしまうということです。
変態が完了しない、ということですね。
変態が途中で止まると、未変態のオーステナイト(残留オーステナイト)が製品内部に残ります。残留オーステナイトは組織的に不安定で、時間の経過や外部からの応力によって徐々にマルテンサイトに変態しようとします。このとき体積が膨張するため、製品の寸法が微妙に変化してしまいます。
工具鋼(SKD11, SKH51など)や軸受鋼は炭素量が高く、Mf点が室温以下になることが多い代表的な鋼種です。例えばSKD11(C:1.40〜1.60%)は炭素量が非常に高いため、Mf点は明らかに室温以下と考えられます。こうした鋼種において「普通の焼入れ」だけで完全なマルテンサイトを期待するのは、原理的に無理があります。
Mf点を知ることが条件です。そのうえで次の工程(サブゼロ処理)を設計する必要があります。
参考:残留オーステナイトの発生メカニズムと硬さへの影響
Mf点を計算式で推定することの実務上の価値は、サブゼロ処理が必要かどうかを事前に判断できる点にあります。
サブゼロ処理(深冷処理・零下処理)とは、焼入れ後の鋼材を0℃以下の低温に冷却する熱処理工程です。ドライアイス(約−78℃)や液体窒素(約−196℃)を使って冷却し、残留オーステナイトをマルテンサイトに変態させることを目的としています。
処理の方針はシンプルです。
例えば、計算式でMs点が200℃、Mf点が推定で−60℃と算出された場合、室温での焼入れでは変態は途中で止まります。この場合はドライアイスレベル(−78℃)のサブゼロ処理をかければ、ほぼMf点に到達できると判断できます。
不二越の技術資料によれば、SKD11(冷間金型用合金工具鋼)の場合、サブゼロ処理によって硬度がHRC60程度からHRC62程度まで上昇する事例が示されています。数値で言えばわずか2ポイントですが、耐摩耗性や寸法安定性の向上は体感できるレベルです。これは使えそうです。
ただし、サブゼロ処理には注意点もあります。残留オーステナイトの急激な変態によって新たな内部応力が発生するため、処理後は必ず焼戻しを行うことが原則です。また、マルテンサイト系ステンレス鋼など耐食性が求められる鋼種では、低温処理により耐食性が低下するケースもあるため、鋼種ごとの特性確認は必須になります。
サブゼロ処理の要否を「なんとなく」ではなく、Mf点の推定値を根拠に決定できるのが、計算式を知っているメリットです。処理の必要性をデータで示せれば、工程設計の説明責任を果たしやすくなります。
参考:サブゼロ処理のメカニズムと残留オーステナイト低減効果(不二越NACHI)
https://www.nachi-fujikoshi.co.jp/dcms_media/other/06d1.pdf
計算式にはどうしても限界があります。そこが原則です。
特に高合金鋼(SKD11、SKH51、マルエージング鋼など)では、計算式の成分範囲を大きく外れてしまい、計算値と実測値の間に100℃以上の誤差が生じることも珍しくありません。九州工業大学の1986年のレポートでも、複数の計算式を現用鋼種に適用した結果、高合金鋼ほど精度が低下することが示されています。
では計算式が使えない場合はどうすればよいか。実務上は以下のアプローチが有効です。
実際の現場では、Mf点そのもののデータより、Ms点のデータを基準にして「Mf点はMs点より約150℃低い」という目安で運用しているケースが多く見られます。この目安は低合金鋼では比較的信頼性がありますが、高合金鋼や高炭素鋼では外れることがあるため、過信は禁物です。
また、マルエージング鋼のように特殊な組成の鋼では、Ms点が220℃、Mf点が90℃という比較的高い温度でマルテンサイト変態が終わるケースもあります。こうした鋼種では逆に、室温での焼入れで十分に変態が完了するため、サブゼロ処理が不要になります。
鋼種によって「常識」が異なるということですね。一律に「高炭素=サブゼロ必要」と決めつけず、鋼種ごとのMf点データを確認する習慣が、品質トラブルの防止につながります。
複数の鋼種を混在して熱処理する受託加工の現場では特に、各鋼種のMs・Mf点を把握しているかどうかが、製品変形・焼割れ・焼き歪の有無に直結します。熱処理担当者としてのスキルの差が、ここに如実に出てきます。
参考:鉄鋼の相変態—マルテンサイト変態編(J-STAGE 学術資料)

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