ABS樹脂(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレン)は、その優れた機械的性質、美しい外観、そして加工のしやすさから、自動車部品、家電製品、雑貨など非常に幅広い分野で利用されている汎用プラスチックです 。しかし、その性能を最大限に引き出すためには、「温度」に対する深い理解が不可欠です。特に耐熱性は、製品の品質と寿命を左右する重要な要素となります 。
ABS樹脂の耐熱性を評価する上で最も基本的な指標が「連続使用温度」です。これは、材料がその特性を著しく損なうことなく、連続的に使用できる温度の上限を示すもので、ABS樹脂の一般グレードでは約70℃から100℃の範囲にあります 。この温度を超えると、変形や強度の低下が始まる可能性があるため、製品が使用される環境温度を考慮した材料選定が重要です。
さらに重要な指標として「荷重たわみ温度(熱変形温度)」が挙げられます。これは、規定された荷重をかけた状態で材料を加熱していった際に、たわみ量が一定の値に達した時点の温度を指します。つまり、熱と荷重が同時にかかる状況下での耐熱性を示す実践的な指標と言えるでしょう。ABS樹脂の荷重たわみ温度は、1.8MPaの荷重下で約80℃から100℃程度です 。例えば、夏場の車内のような高温かつ部品自体の重みや他の部品からの力がかかる環境では、この荷重たわみ温度が製品の形状維持能力を判断する上で極めて重要になります。
より専門的な指標としては「ガラス転移点(Tg)」があります。これは、ABS樹脂のような非晶性プラスチックが、硬いガラス状態から柔らかいゴム状態へと変化する温度領域のことです 。ABS樹脂のガラス転移点は約105℃で 、この温度を超えると分子の運動が活発になり、材料は急激に軟化して弾性率が著しく低下します 。ガラス転移点は材料が固体として機能する実質的な上限温度と考えることができ、この温度が高いほど耐熱性が高い材料であると言えます 。
これらの温度指標を理解することは、ABS樹脂を用いた製品設計において、意図しない変形や破損といったトラブルを未然に防ぐための第一歩です。
荷重たわみ温度や脆化温度など、ABS樹脂の基本的な物性データが掲載されています。
ABSエービーエス樹脂(物性表2)|KDAのプラスチック加工技術
ABS樹脂の優れた特性を製品として具現化するためには、成形加工時の精密な温度管理が極めて重要です 。特に、最も一般的な加工法である射出成形においては、主に「加熱筒(シリンダー)温度」と「金型温度」の2つが品質を決定づける鍵となります。
まず、加熱筒温度は、ペレット状のABS樹脂を溶融させ、金型内へスムーズに射出するために設定する温度です。この温度はABS樹脂のグレードによって調整が必要ですが、一般的には220℃〜250℃の範囲で設定されます 。
次に金型温度ですが、これは射出された溶融樹脂を冷却・固化させるための温度で、製品の外観品質(光沢)や寸法精度、内部応力の低減に大きく影響します。金型温度は一般的に40℃〜80℃の範囲で設定されますが、美しい光沢が求められる製品では高めに設定するのがセオリーです 。
以下に、代表的なABS樹脂のグレードごとの推奨加熱筒温度の目安をまとめます 。
| ABS樹脂グレード | 推奨加熱筒温度範囲 | 最適温度(目安) |
|---|---|---|
| 一般・高衝撃グレード | 220℃ ~ 260℃ | 250℃ |
| 耐熱グレード | 240℃ ~ 280℃ | 265℃ ~ 270℃ |
| メッキグレード | 250℃ ~ 275℃ | 270℃ |
| 難燃グレード | 200℃ ~ 240℃ | 220℃ ~ 230℃ |
また、ABS樹脂は吸湿性があるため、成形前には必ず予備乾燥を行う必要があります。乾燥が不十分だと、加熱時に水分が気化して発泡し、製品表面にシルバーマークが現れる原因となります。一般的には「80℃で3時間」程度の乾燥が推奨されます 。このように、材料の準備段階から成形の最終工程まで、一貫した温度管理こそがABS樹脂加工の成功の秘訣なのです。
ABS樹脂の射出成形における温度管理の重要性や、グレード別の具体的な温度設定について詳しく解説されています。
ABS射出成形:そのプロセスと利点を知る - WayKen
ABS樹脂は常温域で優れた耐衝撃性を発揮しますが、その性能は温度に大きく依存します。特に注意が必要なのが「脆化(ぜいか)温度」です。これは、材料が延性を失い、衝撃に対して脆くなる温度のことで、ABS樹脂の脆化温度は-20℃を下回ると言われています 。
この低温脆性のメカニズムには、ABS樹脂の構造が関係しています。ABS樹脂の優れた耐衝撃性は、ゴム成分であるブタジエンの働きによるものです 。ブタジエンゴムはガラス転移点(Tg)が-80℃前後と非常に低いため、常温では柔軟なゴム状態を保ち、外部からの衝撃エネルギーを効果的に吸収します 。しかし、使用環境の温度が著しく低下し、このブタジエンゴムのガラス転移点に近づくにつれて、ゴムとしての柔軟性が失われていきます。その結果、衝撃を吸収しきれなくなり、まるでガラスのようにパリンと割れてしまう「脆性破壊」を引き起こしやすくなるのです 。
したがって、寒冷地で使用される自動車部品や、冷凍環境下で使われる機器の筐体などにABS樹脂を採用する場合は、この脆化温度を十分に考慮する必要があります。
もう一つ、ABS樹脂を扱う上で重要なのが屋外での使用に関する注意点です。ABS樹脂は耐候性があまり高くなく、直射日光に含まれる紫外線に長時間さらされると、性能が劣化してしまいます 。
主な劣化の症状は以下の通りです。
一般的な環境下では、直射日光によってABS樹脂の表面温度が70〜80℃に達することもありますが、この程度の温度で溶けることはありません 。問題は熱ではなく、紫外線による化学的な劣化です。そのため、屋外での長期使用が想定される製品(例えば、建材や看板、自動車の外装部品など)には、そのままのABS樹脂を使用するのは避けるべきです。対策としては、AES樹脂やASA樹脂といった、ブタジエンの代わりに耐候性に優れたゴム成分を使用した樹脂を選択するか、塗装やコーティングによって表面を保護する、あるいは紫外線吸収剤や安定剤を添加した耐候グレードのABS樹脂を使用するといった方法が有効です 。
近年、3Dプリンターの普及に伴い、ABS樹脂だけでなくPLA樹脂やPETG樹脂といった様々な材料が利用されるようになりました。これらの樹脂はそれぞれに異なる特徴を持っており、特に「耐熱性」は用途に応じて材料を選定する上で非常に重要な比較ポイントとなります 。
ここでは、3Dプリンターでよく使用されるABS、PLA、PETGの3つの樹脂について、耐熱性の観点から比較してみましょう。耐熱性の指標としては、材料が軟化し始める温度の目安となる「ガラス転移点(Tg)」と、一定の荷重下での変形温度を示す「荷重たわみ温度」が参考になります。
主要3Dプリンター用樹脂の耐熱性比較表
| 樹脂の種類 | ガラス転移点(Tg)の目安 | 荷重たわみ温度の目安 (0.45MPa) | 特徴 |
|---|---|---|---|
| ABS | 約 105℃ | 約 85℃ - 100℃ | 高い耐熱性と強度を持つが、造形時に反りやすく、特有の臭いがある。 |
| PETG | 約 80℃ | 約 70℃ | ABSとPLAの中間的な性質。適度な耐熱性と強度、靭性を持ち、造形しやすい。 |
| PLA | 約 60℃ | 約 55℃ | 植物由来で環境に優しく、造形が最も容易。しかし、耐熱性が低く、高温環境に不向き。 |
上記の表からわかるように、耐熱性に関しては ABS > PETG > PLA の順となります。
このように、それぞれの樹脂の耐熱特性を正しく理解し、製品が使用される環境温度を考慮して最適な材料を選択することが、期待通りの性能を持つ製品を開発するための鍵となります。コスト、造形のしやすさ、そして何よりも耐熱性のバランスを見極めることが重要です。
ABSとPETGの耐熱性を比較し、高温用途におけるABSの優位性について解説しています。
ABS と PETG のどちらが強いですか? 3D プリントのニーズに...
ABS樹脂で成形された製品、特に3Dプリンターによる造形品は、その性能をさらに向上させるための後処理を施すことがあります。その代表的な手法が「アニール処理(焼きなまし)」です。これは、成形品をその材料のガラス転移点(Tg)よりも少し低い温度で一定時間加熱し、その後ゆっくりと冷却する熱処理プロセスのことです 。
では、なぜアニール処理を行うのでしょうか?ABS樹脂のような非晶性プラスチックは、射出成形や3Dプリンターでの急速な加熱・冷却プロセスによって、分子が不規則で不安定な状態で固化してしまいます。この結果、製品の内部には目に見えない「内部応力」が残留します。この内部応力は、製品の寸法変化(反りやねじれ)、強度の低下、そして経時的なひび割れ(クラック)の原因となり得ます。
アニール処理の主な目的は、この有害な内部応力を取り除くことです。具体的には、以下のような効果が期待できます。
ここで重要になるのが、アニール処理の温度設定とガラス転移点(Tg)の関係です。ABS樹脂のガラス転移点は約105℃です 。アニール処理は、分子が動けるようになるガラス転移点に近い温度領域で行う必要がありますが、ガラス転移点を大幅に超えてしまうと、製品全体が軟化し、大きく変形してしまいます。そのため、アニール温度は「ガラス転移点より10℃〜20℃低い温度」、つまりABS樹脂の場合は85℃〜95℃程度の範囲で設定するのが一般的です 。処理時間については、製品の肉厚によって異なりますが、3Dプリンターの造形品であれば1〜2時間程度が目安とされます 。
注意点として、PLA樹脂のようにアニール処理によって結晶化が進み、耐熱性や機械的強度が劇的に向上する樹脂もありますが、ABS樹脂は非晶性樹脂であるため、結晶化による物性向上効果はありません 。ABS樹脂におけるアニール処理は、あくまで内部応力の除去と、3Dプリント品における層間接着性の向上が主目的であると理解しておくことが重要です。このひと手間が、ABS樹脂製品の信頼性を格段に高めることに繋がるのです。
3Dプリントした造形品のアニール処理の効果について、ガラス転移点との関係を交えて詳しく解説されています。
3Dプリント造形品のアニール処理で何が改善する? - Nature3D