処遇改善加算を毎年取得していても、介護職の給与満足度はマイナス18.0のまま10年以上変わっていない。
最低賃金には、一般によく知られている「地域別最低賃金」のほかに、もう一つの制度がある。それが「特定最低賃金」(特最賃)だ。特定の産業を対象に、地域別の最低ラインよりも高い賃金水準を設定できる制度で、介護業界の賃金問題を議論するうえで欠かせない概念になっている。
地域別最低賃金は、都道府県ごとに一本設定され、産業や職種を問わずその地域で働くすべての労働者に適用される。2025年10月の改定で全国加重平均は1,121円(前年比+66円)となり、全都道府県で1,000円を超えた。毎年必ず見直しが行われるという点が特徴だ。
対して特定最低賃金は、「この業種の基幹的労働者には、もう一段高い最低ラインを設ける」という目的で設定される。厚生労働省の資料によれば、2025年3月末時点で全国224件が告示されており、約9万の事業主と約296万人の労働者に適用されている。鉄鋼業・輸送用機械器具製造業・電気機械器具製造業などの製造業系に多く設定されているが、介護分野にはまだ存在しない。
両方が適用される労働者については、高い方の金額が優先される。これが基本原則だ。
ただし、ここに盲点がある。地域別最低賃金が毎年引き上げられ続けた結果、かつては地域別を上回っていた特定最低賃金が逆転され、実質的に効力を失っている業種も出てきている。つまり特定最低賃金は「設定しておけばいつまでも有効」ではなく、定期的な見直し申出がないまま放置すると形骸化するリスクがある。
金融に関心を持つ人にとって見落としがちなのは、この制度が「労使の申出」から始まるという点だ。国が上から一方的に決めるのではなく、労働組合と事業主団体が審議会に申出を行い、審議を経て決定される仕組みになっている。介護分野で導入するには、現場の労使が主体的に動くことがスタートラインになる。
| 比較項目 | 地域別最低賃金 | 特定最低賃金 |
|---|---|---|
| 対象 | 全労働者 | 特定産業の基幹的労働者 |
| 設定単位 | 都道府県ごと(47件) | 都道府県×業種(224件) |
| 設定の頻度 | 毎年必ず見直し | 労使申出がなければ据え置き |
| 法的効力 | あり | 設定後はあり |
| 違反時の罰則 | 50万円以下の罰金 | 50万円以下の罰金 |
違反時の罰則は両制度とも同じ水準だ。特定最低賃金が設定された後に守らなかった使用者は、最低賃金法に基づき50万円以下の罰金に処せられる可能性がある。罰則が存在するという点が、任意の処遇改善加算とは根本的に異なる。
厚生労働省|最低賃金の適用される労働者の範囲
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/chingin/newpage_43886.html
(適用除外の対象者や地域別・特定の違いが詳しく解説されている)
「介護職の賃金が低い」という話は以前から知られているが、数字で確認すると実態はさらに厳しい。みずほリサーチ&テクノロジーズが2025年5月に発表した分析によれば、2024年の一般労働者(短時間を除く)の賞与込み給与を比較すると、全産業平均が38.6万円であるのに対し、介護職員は30.3万円と月8万円以上の差がある。
興味深いのは、介護職の賃金の「上昇ペース」だ。第一生命経済研究所の分析(2025年4月)では、2010年を100とした場合、2024年時点で「社会保険・社会福祉・介護事業」の指数は119であり、「全産業」の112を上回る速度で賃金は伸びている。上昇率の観点では、介護職は他産業より速く改善されてきたことになる。これは意外な事実だ。
それでも絶対水準の差が縮まらないのはなぜか。2021年以降、全産業での賃上げ加速(物価高・春闘の影響)に対し、介護分野の賃上げが追いつかなかったからだ。同研究所の試算では2021年を100とした場合、2024年時点で全産業107に対し、介護・社会福祉系は106と、直近では劣後している。
人手不足の数字も深刻だ。厚生労働省の推計では、2026年度に必要な介護職員数は約240万人であるのに対し、2022年度の実績は約215万人。このままのペースでは約25万人不足する計算になる。有効求人倍率で見ると、2024年12月の全職業が1.25倍であるのに対し、介護従事者は4.25倍と約3.4倍もの差がある。4.25倍とは、求職者1人に対して求人票が4枚以上ある状態だと考えると、現場の深刻さが視覚的に伝わるはずだ。
公益財団法人介護労働安定センターの2024年度調査では、従業員が「かなり不足」「不足」「やや不足」と答えた事業所が6割超に達した。採用率14.3%に対して離職率は12.4%と差は小さく、「来てくれる人が足りない」状態が続いている。
人手不足の主因が賃金格差にあるという認識は、政府も共有しており、それが特定最低賃金の導入議論につながった。賃上げのルートはこれまで主に「処遇改善加算」と「介護報酬改定」の二本柱だったが、どちらも任意の加算取得や3年ごとの改定に依存するため、「もう一段、法的に強制力のある下限」を求める声が高まった結果だ。
介護労働安定センター|令和6年度介護労働実態調査(プレスリリース)
https://www.kaigo-center.or.jp/content/files/report/R6_jittai_chousa_press.pdf
(採用率・離職率・人手不足感の数字を直接確認できる一次資料)
特定最低賃金の議論でほとんど見落とされているのが、「賃金だけ引き上げても、介護事業者は収入を自力で増やせない」という構造的な問題だ。
一般の企業であれば、人件費が上がればサービス価格に転嫁できる。しかし介護事業者の主な収入源は「介護報酬」であり、国が定める公定価格だ。事業者が独自に値上げすることは原則できない。つまり、賃金の下限だけが法的に引き上げられても、収入側(介護報酬)が連動して増えなければ、経営が詰まる一方になる。
これは数字にも表れている。厚生労働省の介護事業経営実態調査によれば、施設サービスにおける「収入に対する給与費の割合」はいずれも60%を超えている。コンビニや製造業と違い、人件費が事業費のほぼすべてを占める構造だ。2024年の介護事業者の倒産件数は、東京商工リサーチによれば前年比40.9%増で過去最多になったと報告されている。
加えて、介護報酬の改定は原則3年に1度だ。特定最低賃金が設定されたとしても、次の報酬改定まで最大3年間は収入が変わらないまま人件費だけが法的に固定される可能性がある。この「タイムラグリスク」が、経営者側の最も大きな懸念だ。
みずほリサーチ&テクノロジーズの分析では、「特定最低賃金を導入するには介護報酬の引き上げと財源確保が不可欠であり、介護保険の被保険者範囲の拡大なども検討に値する」と指摘されている。現在は40歳以上が介護保険料を納める仕組みだが、この範囲を広げれば財源の底上げにつながるという提言だ。
金融に関心のある読者が注目すべきはここだ。財源が拡大されれば、社会保険料負担の増加という形で現役世代の可処分所得が圧迫される。一方で介護関連企業の経営安定化や人材確保のコスト構造が変わることは、関連銘柄の評価にも影響し得る。個人の資産運用という観点で言えば、介護保険制度の持続可能性は老後の「自己負担コスト見通し」にも直結する話だ。
また、2024年の介護報酬臨時改定での処遇改善加算一本化・引き上げに続き、2026年6月には再び介護報酬の臨時改定(過去最高水準のプラス改定)が予定されている。処遇改善額は月1万円をベース、最大で月1万9,000円(定期昇給込み)を目指す方針で、介護の賃上げに向けた財源の裏付けを同時に作る形が取られている。
みずほリサーチ&テクノロジーズ|介護職の「最低賃金」導入で問われる財源
(週刊東洋経済掲載記事をベースにした財源と介護報酬の関係分析)
介護職に特定最低賃金が設定された場合、「すべての介護職員が対象になる」とは限らない。この点は特に注意が必要だ。これが原則だ。
特定最低賃金の適用対象は、「特定産業の基幹的労働者」に限られている。厚生労働省の公式資料では、以下の者は適用除外と明記されている。
介護現場では60代・70代のシニアパートが多く活躍している。65歳以上のスタッフは特定最低賃金の「対象外」となる。ただし地域別最低賃金は適用されるため、地域別の水準は守らなければならない。地域別最低賃金なら問題ありません。
また「基幹的労働者」という概念も重要だ。単純作業や付随業務だけを担う非正規スタッフは基幹的労働者に含まれないケースがある。介護助手や清掃スタッフなど、直接介護以外の業務を主とする職員は適用範囲から外れる可能性がある。つまり、「介護事業所で働いているから一律に対象」ではない点だ。
さらに、特定最低賃金は都道府県別・業種別に設定される制度であることから、全国一律での即時適用は現行制度では困難だ。最初はある都道府県の一部業種から始まり、順次拡大していく形が想定される。地方の中小介護施設には、特に財務的な影響が集中するリスクがある。
この「適用される人とされない人の線引き」を知っておくことは、介護事業所を投資対象や就職先として考える際に、評価精度を上げる知識として機能する。意外ですね。
特定最低賃金の適用除外対象(適用範囲)の詳細はこちらで確認できる。
厚生労働省|最低賃金の適用される労働者の範囲(地域別と特定の両制度を整理)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/chingin/newpage_43886.html
2026年3月現在、介護職への特定最低賃金の具体的な開始時期も金額も、国としてはまだ決定していない。これは事実として押さえておく必要がある。
ただし、政治の動きとして確認できていることは複数ある。2025年3月17日の参議院予算委員会で、石破首相が「制度が趣旨を果たしているか政治主導で判断したい」と答弁した。同年3月21日には福岡厚生労働大臣が閣議後会見で「労使の意見や実態を確認し検討を進めたい」と発言。自民・公明の幹事長会談でもエッセンシャルワーカーの賃上げに向けた特定最低賃金活用が議題になった。
一方で、同年12月の参議院審議では「今回の最低賃金審議会でも特定最低賃金はほとんど活用されていない」と指摘する声もあり、具体化のペースは遅い。これは厳しいところですね。
時間軸の整理としては次のように見るのが現実的だ。
現場の労働組合である日本医療労働組合連合会は、老人福祉・介護事業を対象とした全国一律の特定最低賃金の設定申出を行っている。しかし都道府県別・業種別に審議を経るプロセスである以上、「全国同時スタート」は制度上かなり難しい。段階的に一部の都道府県から始まるシナリオが最も現実的だ。
2026年6月の介護報酬臨時改定では、処遇改善加算の対象を介護従事者全体・訪問看護・ケアマネジメントにも拡大する方針が示されており、最大で月1万9,000円(定期昇給込み)の賃上げ支援が目標とされている。特定最低賃金の導入前に、この報酬改定が先行する形になる可能性が高い。
今後の審議会の動きを追うには、厚生労働省の「特定最低賃金の審議・決定状況」ページが一次情報として最も信頼できる。変化があれば随時公示されるため、定期的なチェックが有効だ。
厚生労働省|令和6年度 特定最低賃金の審議・決定状況(PDF)
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001377033.pdf
(現在適用中の224件の業種・都道府県・金額が一覧で確認できる)
第一生命経済研究所|介護分野の賃上げは介護報酬改定だけで進むのか?
https://www.dlri.co.jp/report/ld/435597.html
(賃金推移データと特定最低賃金の論点を産業横断的に整理したシンクタンクレポート)