就業規則を労働基準監督署に届け出ただけで義務を果たしたと思うと、あなたの退職金が1円も払われなくなる可能性があります。
就業規則の周知義務は、労働基準法第106条第1項に明確に定められています。使用者(会社)は就業規則を作成・変更した際、単に書類として保管しておくだけでは不十分で、すべての労働者が内容を確認できる状態に置かなければなりません。
この義務が設けられた背景には、3つの目的があります。第一に、労働者が就業規則の内容を知らされないまま不利益な扱いを受ける事態を防ぐこと。第二に、使用者が就業規則に従っているかどうかを労働者が監視できるようにすること。そして第三に、就業規則が職場の共通ルール・労働条件の最低基準として実際に機能するようにすることです。
つまり「周知」が原則です。
注目すべきポイントは、この義務が「常時10人以上の労働者を使用するかどうか」に関わらず適用される点です。10人未満の小規模事業者であっても、就業規則を作成した以上は、その時点から周知義務が発生します(菅野和夫・山川隆一「労働法(第13版)」弘文堂)。就業規則の「作成義務・届出義務」は10人以上が条件ですが、「周知義務」はそれより広く及ぶわけです。意外ですね。
また、就業規則の効力は「労働者にその内容が周知された日」から発生します。届出だけ済ませても、周知が行われていない限り就業規則はその法的効力を持ちません。これは非常に重要な点で、後述するリスクに直結します。
| 義務の種類 | 対象となる事業場 | 根拠法令 |
|---|---|---|
| 作成義務・届出義務 | 常時10人以上の労働者を使用する事業場 | 労働基準法第89条 |
| 周知義務 | 就業規則を作成したすべての事業場 | 労働基準法第106条 |
参考:労働基準法第106条および同施行規則第52条の2(厚生労働省スタートアップ労働条件サイト)
https://www.startup-roudou.mhlw.go.jp/qa/zigyonushi/syuugyoukisoku/q8.html
法律が求める「周知方法」は、労働基準法施行規則第52条の2によって具体的に3つが列挙されています。これ以外の方法では、法定の周知義務を履行したことにならない点に注意が必要です。
📌 法定の3つの周知方法
それぞれの方法には「NG事例」が存在します。これが実務上のつまずきポイントです。
①掲示・備え付けのNG例としては、作業場の天井付近の高い場所に掲示したり、他の掲示物の裏に隠れるように貼っておくことは「見やすい場所」とはいえません。また、掲示・備え付けをしたとしても、その場所を労働者に伝えていなければ義務を尽くしたことにはなりません(厚生労働省令和5年10月12日基発1012第2号)。
②書面交付のNG例については、口頭で就業規則を読み聞かせるだけでは「交付」にはなりません。また、書面を渡して読ませた後に回収してしまう行為も、書面の「交付」と認められません。
③電子データのNG例が特に見落とされがちです。パスワードがかかっている共有フォルダに保存されていると、誰もが閲覧できる状態とはいえず、周知したとは認められません。これは使えそうです。さらに、会社のホームページに掲載しているだけで「各作業場に機器を設置していない」ケースも、義務違反となります。自宅のパソコンや個人スマートフォンからしか閲覧できない状態は不十分です。
また、複数の事業場や作業棟がある場合、本社や1つの建物だけに掲示するのではなく、各「作業場」単位での掲示・備え付けが求められます。たとえば事務棟と工場棟が別棟であれば、両方に掲示しなければなりません。
周知義務を怠った場合のリスクは、大きく2種類に分かれます。「刑事的リスク」と「民事的リスク(就業規則の無効)」です。痛いところですね。
🚨 刑事的リスク:30万円以下の罰金
労働基準法第120条第1号により、周知義務違反には30万円以下の罰金が科される可能性があります。罰則を受けるのは取締役・支店長・工場長などの実質的権限を持つ「使用者」であり、さらに両罰規定(同法第121条)により、法人(会社)も同時に罰金を受ける場合があります。
通常は最初に労働基準監督署からの「指導・是正勧告」という形が取られますが、勧告に従わなかったり、違反が悪質と判断された場合は、検察庁へ送致・起訴されるリスクがあります。厚生労働省の発表によると、令和6年4月から令和7年3月の1年間で、就業規則の周知義務違反(労働基準法第106条違反)として送致・公表された事案が2件存在しています。企業名が公表されると、採用や取引先への信用にも影響が出ます。
⚠️ 民事的リスク:就業規則の効力が無効になる
刑事罰よりも、実態として会社経営に大きな影響を与えるのが、就業規則の「効力の無効」です。就業規則が有効に労働契約の内容となるためには、労働契約法第7条が定める「周知」が要件となっています。
この「実質的周知」が行われていない場合、就業規則に基づいて設けた懲戒規定・定年制・退職金規程の変更なども、労働者に対して法的効力を持たないと判断される可能性があります。
有名な判例として、東京地方裁判所平成22年6月25日判決(芝電化事件)があります。この事件では、経営状態が悪化した会社が退職を勧めた後、退職金規程の変更・廃止を理由に退職金の支払いを拒否しました。しかし裁判所は「退職金規程の廃止が十分に周知されていなかった」と判断し、廃止・変更を無効と認定しました。結果として会社は退職金を支払う義務を負うことになっています。
また中部カラー事件(東京高判平成19年10月30日)では、朝礼で退職金の変更を口頭で説明しただけでは「周知」に当たらないとされました。説明文書の配付や回覧がなく、概略的な説明しかなかった点が問題視されています。つまり、口頭説明だけでは不十分ということです。
参考:就業規則の周知義務違反とリスクに関する解説(弁護士法人ALG)
https://xn--alg-li9dki71toh.com/roumu/labor_regulations/notification-obligation/
「就業規則は正社員向けのもの」という認識を持っている方は少なくありません。しかし、これは大きな誤解です。周知義務の対象は、正社員・パート・アルバイト・契約社員を問わず、そのの事業場で働く「全労働者」です。
一部の雇用形態の労働者にだけ周知した場合、当該就業規則は未周知の労働者との関係では無効となります。これが基本です。
さらに見落とされやすいのが、複数の就業規則が存在するケースです。「正社員向け就業規則」と「パートタイム向け就業規則」を別々に作成している会社は多くあります。この場合、同一事業場内のすべての労働者に対して、すべての就業規則を周知させる義務があります(昭和63年3月14日基発第150号)。パートタイム向け就業規則の存在を正社員に知らせていなかったとしても義務違反になるケースがある点は、見落とされがちな落とし穴です。
また、業務委託契約や請負契約で働く人、派遣労働者については周知義務の対象外となります。派遣労働者の雇用主はあくまで「派遣元」であり、派遣先の就業規則は適用されないためです。ただし、派遣元の就業規則に「派遣先の就業規則を遵守する」旨が定められている場合は、その部分について実質的な周知が求められます。
さらに重要な点として、「退職金規程」や「給与規程」などの個別規程も周知の対象に含まれます。退職金の計算方法や支給条件を定めた「退職金規程」を別冊にして金庫にしまっておいた場合などは、実質的な周知があったとはいえず、退職金の減額・廃止変更が無効と判断されるリスクがあります。
一方、経理規程・情報管理規程など、労働条件と直接関わりが薄い社内規程については、必ずしも開示義務はないとされています。どこまで周知するかの線引きに注意が条件です。
就業規則の変更が「不利益変更」にあたる場合、周知義務はさらに厳しい意味を持ちます。不利益変更とは、賃金・賞与・退職金の減額、定期昇給制度の廃止、各種手当のカット、休暇・休日の削減といった、労働者にとってマイナスとなる内容への変更です。
原則として、不利益変更は個々の労働者の同意がなければ無効です(労働契約法第9条)。しかし例外として、変更後の就業規則を周知したうえで、変更内容に「合理性」がある場合は、個別同意なく労働条件を変更できる可能性があります(同法第10条)。
合理性の判断要素は以下の5点です。
これらの要素が認められたとしても、変更後の就業規則を適切に周知していなければ、不利益変更の効力は発生しません。つまり、合理性があっても周知がなければ意味がないということです。
金融業界を含む多くの企業で、リストラや経費削減に伴って退職金規程の見直しが行われるケースがあります。この際に「取締役会で決議した」「労働組合に意見を聴いた」だけでは不十分であり、変更後の就業規則を全従業員が閲覧・確認できる状態にすることが不可欠です。
また、就業規則の変更手続きは以下の流れで行う必要があります。
①と②だけで終わってしまい、③を忘れている会社が実務上は非常に多く見られます。届け出が完了した時点で「手続き完了」と認識してしまうのが典型的な落とし穴です。
就業規則の変更管理をシステム化したい場合は、クラウド型の労務管理ツール(例:マネーフォワードクラウド給与・SmartHRなど)を活用すると、変更後の就業規則をデジタルで全従業員に配信・確認させる仕組みを整えやすくなります。確認したかどうかの記録も残せるため、後のトラブル防止に役立ちます。
参考:就業規則の周知方法と不利益変更の解説(厚生労働省 確かめよう労働条件)
https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/hanrei/shogu/kisoku.html
ここまで、「周知義務を守らないとどうなるか」という使用者側のリスクを中心に説明してきました。しかし、従業員や求職者の立場から見ると、この周知義務は「自分の権利を守るための武器」になりうるものです。
労働契約法が定める「実質的周知」とは、「労働者が知ろうと思えばいつでも知り得る状態にあること」を意味します(平成24年8月10日基発0810第2号)。これは、法定の掲示・交付・電子データという3つの方式に限定されず、より広い概念です。例えば、内容の要旨を口頭で繰り返し説明した記録がある場合も、実質的周知として認められる可能性があります。
ただし、会社にとっては「実質的周知」が整っていることで大きなメリットがあります。それが「労働契約規律効力」の活用です。就業規則が実質的に周知されていれば、個々の労働者と個別合意しなくても、就業規則の内容が労働契約の内容となります(労働契約法第7条)。これにより、入社時の雇用条件や変更後の労働条件を統一的・効率的に管理できます。
反対に、会社側が周知を怠ると、折角設けた懲戒規定・転勤命令・定年制・退職金規程が「無効」と判断されるリスクがあります。実際、定年60歳を定めた就業規則が本店にしか置かれておらず、支店の従業員に知らされていなかったため、「実質的周知なし」として定年制の適用が認められなかった判例もあります(東京地裁平成27年8月18日判決・エスケーサービス事件)。
従業員の立場から見ると、就業規則を確認する権利があることを知っておくことは大切です。会社が周知を拒否したり、就業規則の内容を開示しないことは違法となります。もし就業規則を見せてもらえない、あるいは変更の説明がなかったと感じる場合は、所轄の労働基準監督署への相談が有効な選択肢です。
また、金融機関や上場企業では、内部統制・コンプライアンスの観点から就業規則の適切な管理と周知が株主・投資家からも注目されるポイントになっています。労務管理の透明性は、ESG(環境・社会・ガバナンス)評価にも影響を与える時代です。就業規則の周知は、単なる法令遵守を超えて、企業の信頼性を支える基盤といえます。これは使えそうです。
周知の実施状況を定期的に確認するための簡単なチェックリストとして、以下のような視点を持つと安心です。
参考:就業規則の周知に関する厚生労働省スタートアップ労働条件ページ(実質的周知の考え方も掲載)
https://www.startup-roudou.mhlw.go.jp/qa/zigyonushi/syuugyoukisoku/q8.html